2015年10月7日水曜日

なぜ京都を嫌いになったのかをずっと考えている。

自分の京都時代をまとめると、
初期:大学入りたて~20才くらいまでの時期。
中期:ロックバンドをいくつかやったりしていた時期。
後期:ヘグシオでブリッジに出たりするようになってから以降。
に分けられる。


昔、京大の吉田寮ってところでみんなでライブイベントをやろうってことになってなんやかんや考えたり準備したりしてて、ステージセットを組んだりしてついに前日にみんなのリハまでしたのに、結局クレームがきて対処出来なくて中止になった、っていうのがあった。

その時俺がやろうと思ってたライブは、それまでずっと1人で作ってた曲を流してワ~ッって踊ったりそれに合わせて機材をいじろうかなっていうもので、リハも当然そのスタイルでやったら友達から「え、これだけ?」みたいな困惑の声が漏れていたのが面白かった。今だったら、オケを鳴らしてその上で何かするっていうライブなんて普通だけど、その時は、周りのみんながやってたのは”ロック”で、打ち込みをやってたヤツなんて1人もいなかったから、曲を流して合わせてパフォーマンスするDJ的なライブの発想が理解できず、単に曲を流しているだけ、と映ったようだ。
ライブでやるつもりだったのは、ロングピースという曲で、電気グルーヴの虹みたいな感じのテクノで、作った当時は19才だった。15年前だ。。。曲はどっかにいっちゃって、もうない。聞きてぇ~~・・・。

18~9才の頃、テクノみたいな曲をいっぱい作っててテープに録音したりしてて、どの曲も最高だと思ってた。まさに井の中の蛙大海を知らず、だけど、でも友達でそういう音楽を作っている人は誰もいなくて、全員ロックしかやっていなかった。トキワ荘とまではいかなくても、同じ趣味の同士が誰もいなくて、結局俺もロックをやるようになっていった。ドラムが叩けたので。

この辺から京都時代の中期に入っていく。

ロックバンドを2つほどやった。
(この時代はサラッと書くのが難しいので飛ばします。後日また書くが、とにかくこの頃のことを思い出すと本当に虚しい。)

んで後期。
その後ヘグシオを始めたけど、やっぱり京都では誰もほめてくれなくて、でも、森くんが大阪の新世界ブリッジというところにライブを見に行ったら面白かったからそこにテープ送ってみようと言ったのでみんなで録音して送ったらライブに誘ってもらえて、オレはそこではじめてバンドのやり甲斐を知ったのだった。いいと言って貰える嬉しさも、おもしろいミュージシャンがいっぱいる楽しさや刺激も京都には無かったし、”バンドの居場所”みたいなのもできた。自分たちもできるだけ毎回ライブで新曲をやろうと思って頑張ったりした。

大阪でバンド活動ができるようになったことは人生の転機になったと思う。まさに新世界だ。
その後ヘグシオが無くなって、映像をメインで作るようになった。18才のころは、1人でテクノを作っていた。自分を天才だとしか思ってなくてバカだけどまっすぐだったから、そっちの方がいい。京都の嫉妬と抑圧に数年間晒され続けて随分捻じくれ曲がったと思うが、その後ひとりぼっちで映像を作り、大阪の友達のMVを作ることによってなんとか元に戻っていったと思う。




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