2010年6月19日土曜日

タブクリア



小学5年生から俺は名張から上本町まで近鉄電車に乗って浜学園に通い始めた。 その頃も今と同じく、照れ屋の人見知りの内弁慶で、友達のなかでは王様だったけど、通い始めたばっかりの塾に知ってる友達がいるわけも無く、そこでは一人ポツンとしている静かな少年だった。 靴下を履いていかなかったら、クラスの中心グループの奴らに「裸足やん!」「貧乏や!」とおちょくられたり、 筆箱を取り上げられてキャッチボールされたり…。ア、いじめられてる? でもそんな俺がそのクラスで下克上を果たすのもそう遠くはなかった。そうあれはわすれもしない国語の授業のときだ。俳句についての授業だった。 その日も俺はおとなしく授業を聞いていた。 すると先生が 「はいじゃあ俳句に一番重要なものはなんでしょう?」 と生徒たちに問題を出した。答えは季語だったんだけど、そこで何を思ったか俺はハイ!と勢いよく手を挙げて答えた。 「ひっしゃ!」なぜわざと間違えた答えを手を上げてまで答えたんだ? しかしどうだろう。クラスのみんなはなぜか爆笑しているではないか。 そしてそこから俺は立て続けに手を挙げてトボケた答えを連発し、クラス中のみんなを巻き込みボケ合戦を展開したのだ。 それは先生におこられるまでの1分か2分のとても短い時間だったけど、 その瞬間から俺は靴下を履いていなくてもおちょくられなくなり、筆箱でキャッチボールをされなくなり、クラスの中心グループの奴らも俺のトコに話しに来るようになったのだ!



浜学園には名張から上本町まで1時間電車に乗って通っていたのだけど、 同じ塾に通ってる榛原から乗ってきて行きも帰りもいつも俺と同じ電車でお互い顔は知っていたけどクラスは違うし喋ったことがなかったヤツがいた。あるときなぜかどっちからというわけでもなく話しかけて、電車の中に貼ってあるポスターに載ってた『左とん平』という名前で二人で笑って、それで仲良くなった。二宮という名前だった。

二宮とは行きも帰りも電車が一緒だったので自然とかなり仲良くなって、帰りの電車ではいつも遊んでいた。もう一人五位堂のやつと三人で、電車の中でカップラーメンを食べたりチェリオのジュースを飲んだり、二宮はいつも水筒を持ってたのでそれを取り上げてダッシュで逃げて隠したり、 二宮は榛原で降りるとき絶対にホームの階段の一番近いドアから誰よりも先に出たいから 榛原駅に着く5分くらい前からそのドアの前を陣取って動かないので、 ある日いつものようにドアの前に陣取った二宮に唾をベローンってつけて少し離れたら、 二宮は仕返ししたいけど陣取ってるからその場を離れられへんくてどうしようもなくなって、 「お前今度堅い鉄棒で殴るからな!」と言った。

二宮はたまに「ぼくはお母さんのつくるさくらでんぶと錦糸卵のお弁当が一番好きだな。」という全く意味の分からない変な物まねをする変わったやつだったのだが、ちなみに二宮のお母さんもこれまたちょっと変なヤツで、たまたま二宮がお母さんと一緒に電車に乗ってきた時の話。二宮のお母んはカバンからおもむろにライチを出し、二宮と二人で食い始めた。お母んは俺にも一個勧めてくれたので食べていると、お母んは二宮の好きな食べ物の話をしてきた。「この子はライチが大好きなのよ。」「へぇー」と聞いていたら、延々と自分の息子の好物について俺に話し始めた。

あるとき、いつものように塾からの帰り、いつもの21:20発の宇治山田行き快速急行にのっていると、(そのころはお父さんの事務所も上本町にあったので俺はよくお父さんと一緒に帰っていた)どっかの駅で人身事故があって、電車が榛原でストップした。 ほんで榛原で降りるはめになったんやけど、近鉄が榛原から臨時バスを出すということでそれを待つことになったのだが、待ち時間は1時間とか。そこに、二宮とそのお母んが現れて、なんと「もしなんでしたら車で名張まで送りましょうか?」と言ってくれたのだ。俺とお父さんはその好意に甘えることにした。が、車を走らせて10分くらいすると急に二宮のババァが、「道中暗いし知らない道は怖いわぁ・・」とかなんだかんだもう送ってあげるの嫌や的なグチを言い始めた。その瞬間にお父さんが「あ、ほないいですわ。ここで降ろしてください」と言って、 榛原らへんのわけわからんとこで降りることになった。

真冬で寒い中、真っ暗な国道沿いで俺とお父さんは 公衆電話を探してお母さんに電話して車で迎えに来てもらった。 車を待っている間に臨時バスは何台も通り過ぎていき、駅で待っていればそれに乗って帰れてたのに、二宮のババァの中途半端な親切のおかげで…。なにより、お父さんが「ほな降ろしてください」と言ったときの二宮のババァのあの 「あ、いいんですかすいませんねぇ」ってめっちゃほっとしたような、うれしそうな、ラッキー!みたいな顔が、俺とお父さんをとても嫌な気持ちにさせた。

その後 俺は清風中学を受験し、ちなみに二宮は明星中学を受験したらしいが、ともかく入試が終われば、塾に行く必要もなくなり、二宮とも会うこともなくなった。俺は試験に合格し、晴れて新たなステップを歩み始めたのだ。

しかし俺と二宮の縁は完全に切れたわけではなかった。



清風中学に入学して2年くらい過ぎ、俺は中3になった。

世間一般の中3といえば、部活だ受験だ恋だ、色々あるだろうが、俺たちはエスカレーター式の男子校で、受験の必要もなく、ただ毎日のんびりと授業中にマンガを読み、やたらと腹が減っているだけの単なる襟足の刈り上がった成長期の少年だった。

ある土曜日に俺は上田や田辺とか友達何人かでハイハイタウンの地下にあったカツ丼屋に行った。 俺はその店のバイトの女の人をひそかに気に入っていて、というのも、 その人が丼を客に持っていってカウンターにもどり水をグラスに注いで飲んだときに、「フーお水おいしい。」とぼそっと言ったのが猛烈に素敵だったのだ。とにかくそのカツ丼屋でベラベラ喋りながら俺たちはカツ丼を食っていた。 その店にはカウンター席とテーブル席があり、俺たちはテーブル席に座っていたのだけど、 ふとカウンター席を見るとなにやら見覚えのあるヤツが一人でカツ丼を食っていた。
二宮だった。

小学生の頃に俺たちと同じ塾に通っていたヤツの情報によると、二宮は明星中学の入試には失敗し、その直後に榛原から上本町に引っ越したらしく、日本橋へ向かう途中の坂をチャリで走ってるのを見かけたことがある、とのことだった。だけどまさか再会するとは思っていなかった。 向こうは俺に気づいていなかったのでおれは声をかけた。 「オイ!二宮やんけ!」 すると二宮はくるっとこっちを向いた。 そして俺を指差して一言、「おまえなぁ、今に見とけよ!」 とだけ言って店を出て行った。 小学生の頃から変わったやつだったので意味の分からないことはよく言ってたけど、そのときも俺はその言葉の意味がちっとも分からなかった。

その後二宮と会うことも思い出すこともなく、俺は高校生になった。俺は退屈なクラスの中心グループからすこしずつ離れていき、趣味が似ているやつらと一緒にマンガや音楽や献血に興味津々で、あいかわらず毎日だらだらと高校生活を送っていた。

高1のとき席が近くでよく喋るようになったヤツは少しおかしなやつで、黒魔術とか戦争論とかそういう変わった本ばっかり読んでいた。半分登校拒否、学校に来たとしても5時間目か6時間目、テストも全部白紙で、変なヤツだと言う認識はみんなもっていたけど賢すぎてバカなやつ、喋ってみるとおもしろくてわりといいやつだった。しかし俺はあるときそいつと些細なことで喧嘩になり、俺は両端に乾電池がついた細いギターの弦みたいな、そいつオリジナルの武器で首を絞められ、むかついたので殴った。その後担任に生活指導室に呼ばれなんでケンカになったんやと聞かれて、俺はこうこうこうです、と答えたのだけど、そいつは何を聞かれても「答える必要はありません。」としか言わなかった。担任はキレて散々暴れまくった挙げ句、解決策に俺たちを握手させてこのケンカを終わらせようとした。俺たちは握手することなくその場を去り、それ以来関係はギクシャクのまま、そいつは相変わらず半分登校拒否、学校に来たとしても5時間目か6時間目、当然留年し、一学年下になり、しばらくしたころに学校をやめた。噂によるとヤツは学校をやめてからもちょくちょく制服姿で上本町近辺のゲーセンに現れていたそうだが、その後三重県の山奥にある日生第二という全寮制の監獄みたいな学校に入学し、俺が大学1年生になった年にそこで自殺した。



高2のときの文化祭。隣のクラスのヤツがボンジョビかなんかのコピーバンドを組んで体育館のステージで演奏しているのを見た時、俺と桐吉はバンドやろうやと言った。

そして次の週の土曜日に俺は桐吉と一緒に心斎橋のイシバシ楽器店に桐吉のベースを買いに行った。ギターやボーカルは全員桐吉が選んで連れてきた。ギター1の丸山は生まれたときからの何かで頬にでかい傷があり、ギター2の大石は何かの賞に入選するほど絵がうまくて、ボーカルの一人は模型動画部(オタク系の部活)の宇田というヤツで手が常にプルプル震えていてそのことを本人に聞くと、曰く脳の神経がちょっとつながってないトコがあるとのこと。 もう一人のボーカルは授業中は常に寝ていて、後に同志社大学を受験するも4年連続で不合格だった新原で、ちなみに童貞を捨てた相手が乱交パーティーで出会った人妻だ。こんなヤツらをわざわざ選んでくるあたり、桐吉はさすがだと言う他ない。 メンバーも集まり、俺はヌンチャクの曲を耳コピして楽譜を書いてみんなに渡して、じゃあ土曜日にスタジオ行こうやと日本橋の文楽劇場の裏にある スタジオfというところでよく練習した。練習がなけりゃあ献血に行って無料のジュースをガブガブ飲んでお菓子をむさぼり食って、さらにそのお菓子をポケットにパンパンにつめて、桜川にある大石の家に行き、俺が録音したギャーとかピーとかのゴミな音楽をみんなに聞かせ、おもろい、とか言っていた。

今思い出してもまったくもってしょうもない毎日だ。

そしてそろそろまた二宮が出てくる。



その後、10日間の停学をくらい家で般若心経を100巻も書かされる、等の活動を経つつ、俺も高3になった。

清風高校は俺たち中学から入った六ヵ年と、高校から入った理数科(偉い)と普通科(普通)の三つのくくりがあり、そしてそのくくりの中でまた成績順にクラスが分けられる。 高3になるとさらに志望校別にクラスが分けられる。理系か文系か、国立志望か私立志望かで勉強する科目が違ってくるからだ。俺は国立文系を志望したのだが、国立志望のクラスは成績のいいやつだけを集めたクラスなので、もちろん俺はそのクラスに入れないと先生に言われた。

しかし俺みたいに成績が悪いくせに国立を志望する六ヵ年のバカが他にも何人かいて、また、普通科は基本的に全クラス私立コースなのだが、その中でも成績がよくてかつ国立を目指す奴らも何人かいて、なぜかその年だけ実験的にそいつらを集めた六ヵ年と普通科が合体した中途半端な、いわば二軍のようなクラスが出来た。 他のクラスは40人以上いるのに俺らのクラスは28人しかいなかった。 授業は、一軍クラスを教えるのは予備校でバリバリやってそうな厳しい本格的な先生ばっかりだが、こっちの二軍クラスは「ボクはねぇ髪の毛を緑色に染めてみたいんだよー。」とかアホなことばっか言う先生がいるし、一軍クラスの教室の壁には『東大 京大 絶対 合格!』と張り紙がしてあるのに、こっちの教室の壁には俺がふざけてブンブン回していたカバンが当たって開いた大きな穴があるだけだったが、とにかくこのクラスのなんか中途半端な感じが俺は気に入っていた。

ある日、普通科からきたヤツらとおしゃべりしていると、ある聞き覚えのある名前が出てきた。もしかして、と思い、 「え、そいつってこうこうこういうやつ?」と聞くと、「そうそう、そいつ。坂本のことも言ってたで。俺の舎弟や、って言ってたで。」

二宮だった!二宮は清風高校に入学していたのだ。六ヵ年と理数科普通科とでは校舎じたいが違うからほとんど交流がないので、俺は全然知らなかった。 それにしても俺が二宮の舎弟だなんて、アイツもまったく変わってないなと懐かしい気持ちになった。

次の日の全校朝礼の時、俺はちゃっかり二宮を発見した。 「オイ二宮!」 「お、おぉ坂本!」 「誰が誰の舎弟やって!?」とヘッドロックをかましてやった。 それ以来たまに二宮に会った。

高校卒業をまじかに控えた頃、二宮と一度だけ長く話しをしたことがあった。俺はそのころ松本人志にかぶれていたので、将来なにかおもろいことがやりたい、おもんないおっさんに評価されるばっかりの社会はもういやだ、と言うと、二宮はよく分からない顔をして、「そうか、俺は志望校は関学や。」 と言っていた。

それ以来二宮とは会っていない。





6 件のコメント:

  1. 僕の高校(大阪府の公立アホ校)に、なぜか清風のカバン持った女子が居てたのを思い出しました。

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  2. おもろ~ 今度は5年生までを読みたい~

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  3. >>kumbamさん
    ありがとうございます。二宮にまた会ってみたいです。まだアホかどうか。

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  4. >>もっさん
    5年生までか~。あんま何もない!大学以降の方がまだネタがあるよ。大学の時のノリをいまだに続けてる感じやし、今に直結してるもん。

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  5. >>すかちゃん
    俺も奈良の八木駅で女子高生が清風のカバンもってるの見たことある。あんなダサいのよう持つわ。まぁ高校生ならではのファッション感やね。

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